SNSを見るとキラキラした人がいっぱいいて、今を生きるのに必死でもがいている自分がちっぽけに見える瞬間がある。
そしてそういう人は、きっといっぱいいる。(気がする。)
私もそうだし、きっと幸せそうな結婚生活とか彼氏との日常とか友達との飲み会を投稿しているあの子もきっとそうじゃないか。
でもそうだなぁ。私たちが本当に欲しいのってSNSに載せられないぐらいダサくても大丈夫な日常だよね。
ダサいけど大丈夫。ほど頑丈な幸せはない。
人は寂しい時こそInstagramでストーリーをたくさん上げるし、twitterでたくさん呟く。
誰かの日常の片隅に、自分が少しでも登場して存在を思い出してくれたら、と思う。
誰も反応してくれないと、もっと寂しくなってまた更新する。
きっとそういう人がたくさんいるし、私もそんな時期があった。というより定期的にくる(゜_゜)どうにかしてくれ
昔、仲良しだった友人のSNSをたまたま見る機会があった。
前はネイルの写真、友達との飲み会の写真、「今をトキメク20代」の写真ばかりの彼女だった。
だけど新しい彼氏ができてからは、加工もしていなければハッシュタグもついていない、控えめに言って大してキラキラしていない普通の写真ばかりになっていた。
うん、幸せになったんだな。
昔は何回も写真を撮り直して、そこからまた厳選してSNSにアップしていた彼女は、キラキラの写真を載せて誰かに自慢する必要も、それで誰かに羨ましがられたいという気持ちもなくなって、ダサくても、それで全然大丈夫な日常を手に入れたらしい。
羨ましくて私には眩しく見えたんだけど、本当の幸せってこういうことだよな。
それでも別の顔を演じられる「居場所」が人生には必要
別の顔ができる場所=「逃げ場」って言われちゃうかな。
けどそんなことはないのだ(゜_゜)
ちなみに私にとってのそれが、このブログなのだけど。
今から書くことは、SNSやってる人だったら分かる感覚だと思う。
わたしは誰かのブログを読んでいる時、どこの誰かも分からないその人と、その瞬間だけ心の距離が近くなって、人生が近くなったような瞬間がある。
そしてそれがちゃんと生きていくのに前向きになれる時だってある。
となると、やっぱりブログとかSNSに関わらず、実際に存在して生きている場所以外の「居場所」は人には必要なのだ。それが例え普段の自分とは違う顔だとしても。
だって人は誰かと心が通う瞬間が多い方が絶対に幸せになれる。
写真だけで、綴る文章だけで、人って心は少しだけ近づくことができる。
キラキラしたかっこいい文章は書けないけど、わたしは今日も誰かとちょびっとだけ心が近づけばいいと思ってブログを書く。
ダサい文章でも大丈夫。だれかと繋がれればいいね(゜゜)
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