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誰からも褒められなくたって、私たちはよくやってる。

こんにちは、まるです。

最近ちょっと思うことがあって。

大人ってこんなに仕事も家事も頑張って生きてるのに、

褒められる回数が少なすぎるのではなかろうか(゜₋゜)

赤ちゃんの時は寝がえりをうつだけで褒められて、子どもの時は結果が出なくても一生懸命頑張るだけで褒めてもらえた。

大人だって褒められたい。

結果ありきの社会だけど、結果が出なくたって褒められても良くない?

自分で、「よくやった」ぐらい思ってもいいじゃん。

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評価は他人がするものという現実

数年前に、働きたくないと、ニートで親にお金を借りながら生活している人に「俺だって頑張ってるんだ!」と言われ、「その頑張ってるかどうかの評価ってあなたが決めるもんじゃないから」と言ったことがある。

その時私が言ったことは事実だったと思う。
事実なんだけど、なんというか、優しくなかったなぁ…とも思う。

ちなみになんて返すのが正解だったかは今でもわからない。
仕事でも勉強でも、もちろん努力するのは自分の糧にはなるけど、最終的な結果が1番の判断材料になってしまう。

それは自分にとっても、周りにとってもそうだ。それが現実。

でもな~~、正しい答えなんてロボットでも出せるわけで。

評価されなくたって自分でよくやった、ぐらいは思っていい

仕事も、部活も、勉強も、恋愛だって頑張った分だけ評価されるわけじゃない。
もちろん人と関わっている以上、「評価をするのは他人」なのは変わらない。

でも誰も評価してくれなくても、自分で「よくやった。」ぐらいは思っていいんじゃないか。

自分の肩を叩いて、ハーゲンダッツぐらいは買ってあげても良いと思う(゜_゜)

誰かのためにならなくても、過去の自分に向けて書くブログだってありでしょ。

今ではどこかの誰か見てくれているブログも、全然誰にも読んでもらえない時期があった。つまり、結果が全く出ていない状態である。

どうやって人に見てもらえるか模索する毎日。
「続けていたらいつか誰かに見てもらえる」の言葉ばかり。
いつでもない、いつかを待つ日々。正直結構しんどかった。

もしかして世の中に私しか存在していないんか?と思った(゜_゜)

考えてみれば、そもそも誰かと話したり、関わりが持てるのはほとんど奇跡だ。
地球にこんだけ人がいたところで、関われる人はほんの一握り。

でも、誰かが私の記事を読んだ時、本来は関わる予定のない人と少しだけ人生が交われると思ったらすごくロマンチックな気がする。(たとえ数は少なくても!)

見たことも話したこともない人だったとしても、過去の自分のように辛い経験をしている人が何かを求めている時、少しだけ背中を押せたらと思って私は今日も記事を書く。

誰からも評価されない自己満な記事でも、いつかは誰かの背中を押してくれればいい。

だから、たとえ出来上がったものが褒められたもんじゃなくても、私たちはよくやってる。

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